「諦めなければ道はある」47歳の挑戦

毎日色々知りたいこと調べてそのままにしておくの勿体無いので書き留めておくブログ

人によく思われたい症候群

こんな事を覚えている。

保育園の運動会、リレーで走っているとき大勢のお父さんお母さんが応援する席の前を通ったとき、大声で「わーー!」と奇声を発しながら走り過ぎた事。

そしてそんな私を見て笑っている大人たち。

 

世の中には何種類かのタイプに人は別れ、こんな時でも

①運動会そのものに夢中で周りを見てない人

②周りの目が気になって注意がそっちに向いてしまう人

③そもそも嫌だったり無関心で時間をただ過ごしている人

 

私は②のタイプだった。

 

そしてそれは今も変わらない。

行動の根底には「人によく見られたい」というヘンテコなプライドがある。

このプライドが人付き合いを難しくしている不具合もあれば、自分自身を常にアップデートしていく原動力にもなっている。

 

「人は人、自分は自分」

 

うん、それはよくわかっているし時々自分にも言い聞かせている。

でも、「自分さえ良ければ良い」とか「他人からどんなに嫌われようが陰口叩かれようが気にしない」とはならない。

極論すぎるが、他人には誰でもよく思われたいし、他人に迷惑をかけてまで自分を貫き通すことは出来ない。

 

走りながら「わーー」と大声出していた自分。

きっとみんなから見てもらえて「頑張れー」って声をかけてもらえるのか嬉しすぎて声に出てしまったのだろう。

 

朝が来ないと夜が長い?

「明けない夜はない」

有名な言葉であるが、シェークスピアの「マクベス」の一節であることは、正直先ほど知った。

原文は「The night is long that never finds the day」

Google翻訳にかけてみると「夜は長く、その日は決して見つからない」となる。

「絶望名言」と言う本の表紙には「明けない夜もある」とある

直訳だけ見ると、こちらの方がピンとくる気もする。

この本はまだ読んでいないので詳しい内容はわからないが、希望を見出せなかったり絶望の淵にいる人とって、「明けない夜はない」と言われてもピンと来ないのは分かる。

「一晩寝たら全ての問題はオールクリアになるのか?」

「死んでしまった妻が翌朝には『おはよう』とキスしてくれるのか」

 

そんなことありえない。

 

絶望した人にとってそうした「闇」の部分は一生明けることないって話なんだろう。

 

確かにそうだ。

私も一時そちらの住人だったからそう言う気持ちもわかる。

 

でもある日、そんな自分の心に作られた暗闇の部屋には別の部屋の入り口があることがわかる。

実は、ずっと前から気がついていたが面倒くさくて明けていない部屋。

でも、その日は何か気まぐれでその入り口の扉を開けて見た。

するとその部屋から見た外の世界は既に夜が明けて何一つ変わらない日常があったのだ。

当然その部屋には夜も来るし夜の次には必ず朝が来る。

必ず来るとわかっているから朝が来るのを楽しみにできるし、夜は静かに朝を待って休んでいれば良い。

すごく当たり前のこと。

単に自分で勝手にカーテンを閉め切った「夜しかない部屋」にいたと言うことはそのとき初めて知る。

 

だから私が思うのは「明けない夜もたまにはある。だけど夜は必ず明ける。何度も夜はくるけど、夜が来た回数だけ朝もある」という事。

 

カッコいいフォトムービーを安く簡単に作る方法はあるのか?

スマホとネット環境の目まぐるしい進化で、今や誰でも写真や動画を撮影してSNSYoutubeを使えば、何万人という人たちに情報発信するなど簡単な時代ですよね。

学研が2018年に実施した「小学生の将来つきたい職業」アンケートでも「ユーチューバー」は上位3位に食い込むほどの人気となっていた様に、よほど凝ったことをしなければ、動画の企画、撮影、編集さらに出演まで一人で出来てしまう事態でもありますね。

こんな時代の流れにも未だ乗り切れていない分野の一つが、野球やサッカーなどのクラブチームにお子さんを通わせる親たちが卒業、卒団の、時に作成する「思い出のフォトムービー」の世界ではないでしょうか?

 

もしかしたら、私の周りの限られた範囲だけの話なのかもしれないし、もっと若い世代のお父さんお母さん世代では今の時代に合わせた全然違う方法を使っていたり、そもそも実施していなかったりするかもしれません。

 

ただ、この週末をこのフォトムービー制作に思いっきり時間を捧げてしまった私はどうしても、この思いを書き残しておきたかった訳です。

 

フョトムービーの先駆けは結婚式

フォトムービー自体はかなり昔からあって、結婚式で披露宴の最後の方にカメラマンが朝から撮った写真や事前に友人たちから預かった写真を使った綺麗なスライドショーを流すというのが一般的でした。

その後、パソコンの普及や専用のアプリも出回って式場や専門技術を持った人達が作っていた、このフォトムービーも一般の人たちが手軽に作れるようになってからは、招待された友人たちが出し物の一つとして作るものとして様変わりしてきたのではないでしょう?

 

最近のフォトムービー事情

ちょっと脱線したけど、フォトムービーはアプリも良く出来ていたおかげで、然程PCスキルや映像の知識、技術のない人でも容易に作成できるようになった訳です。

(とは言っても、Adobeの専用ソフトを使った本格的なものはいつの時代も一部の人しか作れないことは変わりませんが…)

いかも、一般の人が作りやすくなったということもありその活用方法は結婚式に限らず、七五三のお祝いや誕生会、卒業式や忘年会、慰労会などの節目行事にも多く使われるようになってきたのだと思います。

 

このフォトムービー作成のソフト、値段もピンキリで安いものもあるにはあるのですが、やはり人様に見せるものを作るものになると5000円以上は軽くします。

これだけスマホスマホのアプリが進化してきた中で、昔からあるフォトムービー作成のアプリはどちらかというと「手軽に作成できる」を、売りにするのではなく、ある程度凝った動画編集ができるアプリの一機能として今を生き残っているようです。

なので、パソコンも動画編集の知識、スキルを持っていない人にはハードルが高い代物になってしまったようです。

ちょっと前みたいに気軽に買ってパソコン教室にでも行けば使えるようなものではなくなっている印象があります。

 

人の良いおじちゃんの悩み

さて、前置きが長くなりましたが私の悩みはとある事情でこのフォトムービー作成を引き受けてしまい、そこそこ凝ったことしたいので、そこそこいいアプリが必要。

でも、使うのは今回だけかもしれない。

premire pro で一から作っていくほどの時間もなく、使い方を学ぶ気力がない。

しかもその他のアプリを別に買うにはそこそこ高い。。。

とは言っても、動画編集はハマると結構面白くてもっと極めたくもなる訳です。

なので、premire pro はもう少し使いこなせるようになりたい。

一方で短期的に引き受けたフォトムービー作成のために別のアプリを買ってまで行うか?

 

「そんなの依頼を断ればいいじゃん」

「別のアプリも誰かからアカウント借りればいいじゃん」

「こだわり捨ててスマホでもできるレベルで済ませばいいじゃん」

と皆言うが、出来ないので今の私がいる訳で、こんな言い訳している自分も恥ずかしい訳です。

 

まとまらないけど、今日は終わり。

さぁ、がばろ!

 

 

朝の蜘蛛

床に座ってダラダラと作業をしていると色んなものが目に入ってくることがあります。

脱ぎ捨てられた靴下やカーペットにこびりついているシミ。

時には女性が大嫌いな黒光りした『ヤツ」と目が合い対峙することさえもあります。

そういう意味では牛類にはよく会うことがありますが、蜘蛛にで会うといつも思い出すことがあります。

 

「アサクモヲコロシテハイケナイ」

 

小さい頃、おばあちゃんがは叩きで床を這って歩いている蜘蛛を叩き潰そうとした際によく注意されたし、最近では母親も呪文のようにつぶやいているのを聞いたばかりす。

 

ハエや蚊、ゴキブリなんかは朝昼晩容赦無く叩き潰すのに何故、蜘蛛は「朝」い限って殺してはいけないのでしょうか?

朝に殺生をして気分が悪くなるのはハエやゴキブリだって一緒ではないでしょうか?

 

蜘蛛は晴天の日しか現れない

蜘蛛が巣をはるのは晴天の日という言い伝えがあります。

逆に雨の日などはみかけることもないので、蜘蛛を見かけたら「ハレの日」だということで殺してはいけないということです。

 

お釈迦様の使いだから

これは芥川龍之介の「蜘蛛の糸」作品に描かれていることですね。

生前に蜘蛛を助けた罪人に対して糸を差し伸べるというお話ですが、「蜘蛛はお釈迦様の使い」かもしれないので、地獄に落ちた時のことを考えて今のうちに殺さなかったという徳を積んでおきましょうということでしょうかね。

 

害虫を駆除してくれる

家の中に巣をはって、コバエやダニなどを捕獲してくれる存在で、殺虫剤がなかった昔の生活では共存相手として敬っていたのかもしれませんね。

ただ、これは私の個人的な意見ですがどんなに文明が発達して人間単体で生きていける時代になろうとも他の動植物や自然との共存関係というのは地球に生きる者の原理原則ではないかと思いますので、人間の身勝手でその他異形のものを全排除するというのは後々自分に災いが帰ってくる原因ともなりかねないので、共存している生物や自然を敬う気持ちは持ち続けたいものです。

白魔道士の「海」黒魔道士の「山」

お題「海派? 山派?」

聞けば十人十色の好みと理由がある「海派か山派か」という問い。

「遊ぶんなら断然海でしょう!」

「私、泳げないからどちらかと言われれば山」

と、飲み会で話題にしようものなら何らかの意見の分断があって、そこそこ盛り上がっていくテーマですね。

私個人的には、どちらかといえば「海派」何ですね。

理由はこの後、追って説明せいていきますね。

 

ところで、これは私の勝手なイメージなのですが「海派か?山派か?」って聞かれると昔よくはまっていたロールオプレイングゲームの「白魔道士と黒魔道士」を思い浮かべてしまうんです。

 

全ての人を優しく癒してくれる白魔道士の「海」

ヒーリング系の音源を効くと必ずと言っていいほど波の音ですよね。

波の音には人の心を落ち着かせて安心感を与える効果があることは周知の事実ですが、実際に私も色々と行き詰まった時や落ち込んでいるときは、海まで車を飛ばし浜辺で2〜3時間じっと波の音に身を委ね、ただただ座っています。

はたから見たら「ちょっとやばい・・・」と思われるかもしれませんが、これで全ての英気がリセットされます。

まさに「白魔道士の回復魔法」ですよね。

 

また、海のいいところは「さっと行って、元気をもらって、さっと帰れる」という、身近いてくれる安心感がまたいい。

白魔道士って決して戦力として期待はできないけど、ここ一番のクエストには必ずパーティに入れるなど、「側にいれくれる安心な存在」何ですよね。

まさに「海」が私のそういう存在なのです。

 

ストイックに自分を追い込み爽快感を味わえる黒魔道士の「山」

じゃあ、「山」は嫌いかというとそういうわけではありません。

海は、「癒し」を与えてくれる生きていく上で、絶対必要な存在ですがある一方で「山」が私に試練を与えて成長を促してくれる存在なのです。

当然、山頂での眺めや木々や風、動植物たちの声など「山」という存在は色々な音や色彩、匂いなど五感をフルで刺激してくれる魅力が山ほどあるが、そこにアクセスするためには車でビュンといくわけにもいかず、重い荷物を背負い、自分の足で険しい山道を歩き、テントや食事の準備をして、山々の神に感謝を示して(?)初めて至福の時間が得られるというストイックな場所という印象が大きいんですよね。

 

なぜ黒魔道士かというとストイックに鍛えれば、それこそ「快感!!」って思える爆裂魔法のリターンがあるし、かと行って何となくこちらから寄り添っていかないと、見向きさえしてくれない存在という印象があるんですよね。

 

でも、私はロードバイクで走るなら退屈な海辺よりも「登れるなら登ってこい!その足を壊してやる!!!」って山道の方が好きなんですよね。

「山」は私に大きなチャレンジと達成感を与えてくれる存在なのです。

 

自然は優しく包んでくれるだけではない。むしろ、古来より人言を打ちのめし、常に絶滅の一歩手前まで人類を追い込んできたのだ。 

 

でもやっぱり今の私は海派!

このブログを書いているのは、とある山奥の旅館なのですがここに来るまでに昼の間は海辺でずっと釣りをしている人を見ながらぼーっと過ごしていました。

多分今の自分が「ガンガンいこうぜ!」モードであれば「山派」を選んでいたかもしれませんが、日常の喧騒に心が疲れていた今の自分には「海」が最高!なのですね。